多摩の歴史に注目するならココ!「パルテノン多摩歴史ミュージアム」がお勧めです♪

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多摩センター駅から続くパルテノン大通りの突き当たりに位置する多目的ホール「パルテノン多摩」の2階に「パルテノン多摩歴史ミュージアム」があります。

 

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パルテノン多摩歴史ミュージアムは、「多摩の自然とくらし」をテーマとした旧「常設展示室」をリニューアルし、2000年3月15日にオープンした歴史博物館で「多摩丘陵の開発のあゆみを探る」をテーマに、多摩ニュータウンや多摩丘陵の開発の歴史について展示しています。
入館料は無料で多摩市で唯一の郷土博物館機能を有する施設として地域文化の向上に貢献するために、地域文化の掘り起こしに努め、研究成果を社会に発信していくとともに、地域の人々が地域を知り学んでいく際の拠点となることを目指しています。
展示事業では、年間1回の特別展、年間3回の企画展、毎月の季節の展示等を開催。学習支援プログラムでは、歴史・民俗・自然等の分野の各種講座を開催、市民協働プログラムでは各種市民ボランティアの活動、研究成果発信事業では、紀要・資料叢書等出版物の発行、参加体験事業では、おもに子ども向けの体験プログラムを実施しています。

「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」と言いますが、展示物を眺めながら自分が住んでいる土地の遙か昔の姿に思いを馳せてみるのも良いかもしれませんね。

現地へ足を運ぶ時間のない忙しい方は、かわりに以下の多摩史の略歴をどうぞ♪

 

1.多摩丘陵のはじまり

-開けゆく多摩丘陵-
多摩丘陵に人が住みはじめたのは、およそ3万年前の旧石器時代といわれています。人々は尖頭器やナイフ形石器とよばれる道具を使い、転々と移動を繰り返す生活を送っていました。
縄文時代になると、狩猟や採集などをおこない、定住をはじめるようになり、縄文人たちは、多摩丘陵の豊かな森林資源に支えられ、比較的安定した生活を送っていました。
古墳時代後期頃から次第に丘陵地が切り開かれるようになり、府中に武蔵国の国府が開かれると、さらに開発が進んでいきます。一方、丘陵の豊かな資源は多くの目的で利用され、多摩丘陵の各地で焼かれた瓦は武蔵国府や国分寺の建立に用いられ、この地で育った馬は平安時代には京に送られています。

-武蔵国府と鎌倉街道-
鎌倉に幕府が開かれると、政治・経済の中心である鎌倉から、武蔵国の国府があった府中を経て信濃や下野に通じる鎌倉街道は、大きなにぎわいをみせ始めます。
鎌倉街道沿いの関戸には、関所や伝馬などの交通施設が設置され、交通の要衝となるとともに、軍事的な拠点にもなりました。
鎌倉街道が横切る多摩川の河川敷では、鎌倉を守ろうとする勢力と、北側から侵攻しようとする勢力がたびたびぶつかり、戦場となっています。

-江戸時代の多摩丘陵-
江戸時代には、政治・経済の中心が江戸に移っていったために、甲州街道を中心とする東西方向の交通路が発達し、鎌倉街道の役割も次第に薄れていきます。
宿場がある関戸をのぞけば純農村としての風景が広がっていましたが、江戸を中心とした経済圏が発達してくると、このあたりの農村にも貨幣経済が浸透するようになり、農民の中に経済的に裕福な階層が出現し始めると文化的な関心も高まっていきます。

 

2.近代化と多摩丘陵

−近代化の進展−
明治時代に入ると、近代化の影響で、政治・経済をはじめ生活環境も大きく変化していきます。大正14年(1925)に府中・東八王子間の玉南鉄道が開通し、さらに電気がひかれるようになると、人々の生活に近代化の波が押し寄せます。
大正期には、多摩丘陵の観光資源を新たに開拓しようという気運が高まり、とくに多摩村では、明治天皇行幸の舞台となった連光寺一帯を、明治天皇の「聖蹟」として保存、顕彰しようとする動きも起きています。

−都市化への道−
太平洋戦争を経て、高度経済成長へいたる時期は、多摩丘陵にとって、都市化への道のりでもありました。敗戦の影響を残しながらも、着実に新しい時代へと歩みはじめていきます。
東京都心部へのおびただしい人口集中の影響を受けて、1960年代になると、多摩地域の人口は急激に増加し、また、丘陵地を切り開いて住宅やゴルフ場などがあいついで建設され、多摩丘陵一帯の開発が急速に進行するようになります。

 

3.多摩ニュータウンの誕生

−ニュータウン計画の出現−
昭和40年(1965)、多摩ニュータウンの計画が正式に決定。多摩丘陵一帯の多摩町・八王子市・稲城町・町田市の4市町にまたがる約3,000haもの広大な土地を造成して、約30万人を住まわせようとする壮大な計画でした。
多摩ニュータウン計画は、東京都心部の住宅難の解消と多摩丘陵の乱開発の防止をおもなねらいとして構想されたものであり、多摩丘陵の様相を大きく変えていくことになります。

−「開発」と地域社会−
都市近郊農業が行き詰まっていく中で、地元側では当初、多摩ニュータウンの計画を歓迎する立場をとっていました。
しかしその後、日本住宅公団や東京都によって用地買収が開始されるようになると、住民の多くは開発に対して反対するようになっていきます。それは、土地の買収に応じなければ土地収用法が適用されて強制的に収容されることや、土地価格の単価には交渉の余地がないこと、補償や生活再建の対策が具体的に示されていないことなどが次第に明らかになっていったことが主な要因です。

 

4.変わりゆく多摩ニュータウン

−陸の孤島−
昭和46年(1971)3月26日、多摩ニュータウンの諏訪・永山地区で待望の第一次入居の日を迎えます。入居初日から数日間は、引越しのトラックが列をなし、まさに“引越しラッシュ”の状態が続きました。造成の真っただ中での出発だったため、団地のまわりは赤土がむき出しの地面で、舞い上がる土ぼこりの中での生活を余儀なくされます。
電車やバスなど、交通の整備も遅れ、団地の中で不便な生活を強いられた「陸の孤島」などとよばれ、マスコミをにぎわせたのもこのころの話です。

こうした問題に対して、ニュータウン住民たちはさまざまな形で住民運動を展開し、自分たちの力で市民文化を創造することによって乗り切ろうとします。これは、ニュータウン住民による「開発」への問いかけでもありました。

 

5.多摩ニュータウンの再生

−多摩ニュータウンのこれから−
40年以上にわたって進められてきた公的機関による多摩ニュータウンの開発事業は平成17年(2005年)度末で全て終了しました。1990年代からの若葉台地区(稲城市)の開発では、民間業者を中心とした住宅開発が行われています。また、使用されずに残った土地も売却が進められ、多摩ニュータウン区域では民間業者による大規模マンションが増えています。

その一方、初期に建設された団地では、現在のライフスタイルや居住者層に合わせた建物の建て替えや改築が検討されています。平成23年(2011年)には、諏訪2丁目住宅(諏訪団地)で多摩ニュータウンで最初の建て替え工事が開始され、これまで長らく課題とされてきた多摩ニュータウンの「再生」は実践の段階を迎えています。
パルテノン多摩歴史ミュージアムではそれぞれの時代におけるさまざまな資料や写真などを展示しています。もっと詳しく知りたいという方はぜひお休みの日にに足を運んでみてください。

 

開発前と開発後の多摩ニュータウンの様子がよくわかるこんな展示もあります♪

↓↓↓↓↓↓

 

開発前の多摩ニュータウン

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開発後の多摩ニュータウン

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多摩市立複合文化施設 パルテノン多摩 : http://www.parthenon.or.jp

<アクセス>
パルテノン多摩
東京都多摩市落合2-35
京王線・小田急線・多摩モノレール 多摩センター駅下車 徒歩5分